前回の連載から半年ぶりの更新である。この半年でいろんなことがあった。長女チコリの無軌道ぶりは相変わらずで、この夏、部屋の柱に激突して額から流血、ひと針縫うケガを負った。ぼくが初めて縫合処置を受けたのが9歳だから、男子であるぼくの記録を5年も上回ったことになる。次女のツツは春と夏にそれぞれ肺炎で入院、まったくハラハラさせられっぱなしだ。でも、4月から始まった保育園生活では、保育園がイヤでイヤで2年間毎朝ごねまくったチコリとは対照的に、入園1週目から先生も驚くような順応力を披瀝。保育園の中庭で別れのタッチを済ませ、ぼくに背中を向けてすたすたと歩くその後ろ姿には、いまや頼もしさすら感じさせられる。サブは春にリードをつけたまま元浜倉庫から逃亡。リュウくんや優子さんまでもがさんざん探し回ったにも拘らず、まる1週間も戻ってこなかった。さすがにもうダメだろうと諦めていたら、タカコさんが保健所のホームページでサブの写真を発見。逃亡3日目に、通報によって元浜倉庫から目と鼻の先で捕獲されていたのだった。
ぼくはこの半年、一度も髪を切ってない。夏になってからはヒゲも剃っていない。体重も少し落ちたので、風貌が少し変わった。半年あれば、人は風貌も変わる。
鴨方町に引っ越して2か月が過ぎた。例の築50年の家はなんとか無事融資がおり、4月に売り主への支払いが終わった。融資の額は1000万円にも満たないが、結構な苦労を強いられた。その気苦労のせいゆえに、銀行からまた融資を受けようなんてとても思えない。畢竟、この家はぼくにとっての「終の住処」か。
支払いが終わってからはほとんど毎週末、鴨方町に通った。とにかくやらなきゃいけないことが山とある。といっても、家のリフォームを自分たちの手でやるようなトレンドめいたことはしない。みんながみんなそんなことしていたら工務店がつぶれてしまう、大工さんが食べられなくなってしまう。なんでもそうだけど、その筋のプロたちに任せた方が早いし、仕上がりは断然キレイだ。しかしモノにはすべて予算がある。リフォーム以外のことはすべて自分たちでやることになったのは、すべて予算の都合上のこと。庭木の伐採・剪定、畑の草刈り、ぎっしり裏山を覆った笹竹の駆除。切っては燃やし、刈っては燃やし……。その作業はいまもって続いていて、1時間でも空いた時間があれば〈ARTE POVERA〉のダンガリーシャツに袖を通し、長靴を履いて作業にいそしんでいる。おかげで引っ越す頃には、村の人たちの何人かとすでに付き合いのようなものができていた。作業中に「おい、頑張るのお」と声をかけてくれるのだ。自分たちが作った野菜や果物をもらうのは珍しいことじゃないし、最初に友人になったユウゾウさんからは、「これ使やあええが」と草刈り機までもらった。この村ではどの家も草刈り機を複数所有しているのだとか。なるほど、村では朝7時を過ぎたとたん、草刈り機の2サイクルのエンジン音があちこちでなり始める。近くでラジコンの大会でもやっているかのようだ。ちなみにこのユウゾウさん、齢七十を超えているが、野良仕事の戦力はぼくよりもはるかに上だ。
引っ越して早々こんなことがあった。年に3回あるという村の清掃会、「熊手だけ持って来て」と言われていたので、熊手を手に朝7時に集合場所に行った。すると、その場にいた20人ほどの男性陣はことごとく草刈り機を持って来ている。熊手を持っているのは3人の女性だけ。(なんだ、この青二才的な扱いは?)子どもの頃、兄にくっついて遊びに行った公園の鬼ごっこで、いきなり「おまえ、タマゴな」と意味不明のポジションを押しつけられたのを思い出す。やっているうちにそれはわかってきた。鬼に触られても鬼にならないという、泣きたくなるような屈辱的な扱いであることに。しかし、草刈りの作業を進めていくうち、ぼくは自ら「青二才です」と認めていた。集まった村の世帯主たちのなかで、ぼくは飛び抜けて最年少だった。平均年齢は推定で68歳、いや70歳に届いているか。ところが年齢じゃないのだ。ぼくもその頃には相当に日焼けで顔が黒くなっていたが、ここにいる壮年の男たちの顔といったら、顔の深いしわのなかまで日焼けが染みついている。露出した部分のざらざらした皮膚感、それに節くれだった手。年季が違うのだ。そして草刈り機を操作する彼らの姿の様になっていること。彼らをカッコいいとさえ思った。ベルトがループを通っていなかろうが、作業ズボンのチャックが半分開いていようが……。
引っ越してから2か月近く続いたと思う。ぼくの気分は沈んだまま、薄暗くてぐにゃぐにゃしたところをさまよっていた。それが何によってもたらされているのかわからなかった。深く考えないまま、それは家のせいだろうと決めつけていた。家が広すぎて落ち着かないからとか、お化けが出そうで怖いからとか。実際、家を買ったことを漠然と後悔していた。タカコさんも子どもたちもあんなに気に入っているというのに。サブだって、やっと安住の住処を手に入れたというのに。でも、後になってそれがなんだったのかぼんやりわかった。ぼくは近所の野良仕事の手だれたちに、初めて自分の20年後の姿を見たのである。それがけっしてイヤというわけじゃないのだ。野良仕事はカラダにはキツいが、実はやっていて結構楽しい。みんながやっている畑での野菜や果物づくりも楽しそうだ。早寝早起き、毎日カラダを動かす生活も健康によさげ。であれば落ち込む必要なんてないんじゃないと思うかもしれない。でも、これまで半年先が見えないという生活を何十年と送ってきた。そしてそんな生活には、ごく近い将来にもしかしたらとんでもない宝の山を発掘するかもしれないという夢のようなものや、人生にとんでもなく面白い展開が訪れるのではないかという期待があった。自分でもつくづくアホだと思うが、そう思えてしまうのだから仕方ない。常にそう思ってきたし、実際いまだってまだ思っている。しかし、ぼくが見た20年後の自分には、長年妄想してきたようなどんな幸運も訪れているようになかった。そして、ズボンのチャックが半分開いていることを気にもとめない赤銅色の顔をした自分に、「こうやってぼくの人生は終わるのか」というそこはかとない喪失感を抱いたのだった。
8月も終わりに近づいたよく晴れた日のこと。夕飯の買い物に行った帰りの県道でその女の子を見た。赤いランドセルが不釣り合いに見えるほどの小柄な女の子が信号のない横断歩道を渡っていた。ぼくの前に車が5、6台停車して、彼女が渡りきるのを待っていた。ぼくも車を止めてクラッチを踏んだまま前の車が発進するのを待った。時間にしてさほどのことはない。前の車が動いたのを見て、ギアをローに入れた。ふと道の端、女の子が渡った横断歩道のその先で、その子が道路の方に向き直って突っ立っているのが見えた。彼女は渡るのを待っていた車の一台一台にぎこちない仕種で頭を下げていたのだった。ぼくは彼女に目を向けたまま、ゆっくりと彼女の横を通り過ぎた。その小さな顔は白い帆布の帽子の下で緊張しているように見えた。通り過ぎる間際、目と目が合った。彼女に小さく手を振った。女の子は同じ硬い面持ちでこちらを見ていたが、ぼくが手を振るのを見て表情を崩した。日焼けした顔に粒のような白い歯が見えた。ぼくはそのまま通り過ぎた。車のルームミラーで女の子の姿を見るようなこともしなかった。夏の終わりの昼下がり、通りすがりに小さな女の子を見た、それだけの話。でも、確実にあの日あたりからなのだ、沈んだ気持ちからはい出すことができたのは。
世間から忘れ去られたような小さな村で始まった新生活、チコリとツツの保育園の送り迎えはぼくの役割と決まっている。早めに迎えに行った帰りには、ローソンでアイスクリームを買って、寄島の浜辺で一緒に食べるのが決まりごとになっている。ほとんど決まりごとになっていることがもうひとつ。行きも帰りも車のなかでかけるのはクイーンの『ボヘミアン・ラプソディ』。今年の夏まではチコリの「『マンマミア』かけて!」のリクエストで。夏からはツツの「『ママー』『ママー』!」というリクエストに応えて(ともに歌詞の一部にあるフレーズですね)。主にはぼくとチコリの合唱+ツツのダンスという絵になるのだが、最近は冒頭のバラードのパートをツツも歌えるようになった。相当な見物だと思う。でも、youtubeにあげるつもりはない。ビデオで撮るつもりもない。ぼくとぼくの娘たち、3人だけの宝物だ。
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Yutaka Akahoshi
赤星 豊
あかほし・ゆたか●広島県福山市生まれ。現在、倉敷在住。アジアンビーハイブ代表。フリーマガジン『Krash japan』『風と海とジーンズ。』編集長。