MAYA MAXXを北海道に呼びたい! 2年越しの思い
北海道に移住して4年半のあいだに、多くの友人たちが岩見沢へと遊びに来てくれている。わたしの本業である編集の仕事のつながりから、アーティストやデザイナー、カメラマンなどクリエイティブな職業の面々が多い。ただ冬になると友人たちの足が遠のくのだが、そんななか、雪におおわれた岩見沢に、はるばる京都からやってきてくれたのがMAYA MAXXだった。
MAYA MAXXは1993年からこの名前で活動を始め、2008年からは活動の拠点を東京から京都へ移し、〈何必館・京都現代美術館〉で毎年のように個展の開催を続けている画家だ。また、『らっこちゃん』や『ちゅっちゅっ』などの絵本の刊行でも知られている。
MAYA MAXXと出会ったのは、わたしが編集長を務めていた絵とものづくりの雑誌『みづゑ』の新装刊第1号で、表紙絵を提供してもらったことがきっかけだ。以後、15年ほどのつき合いになり、わたしの人生に重要な局面が訪れるたびに指針となるようなアドバイスをしてくれた。
実は、いま計画中のエコビレッジづくりについても、MAYA MAXXが2年ほど前に語った言葉がすべての始まりとなっている。北海道に自分がいる意味とは何か、そんな話をしていたときに、「みっちゃん、北海道にエコビレッジをつくったらいいんじゃないの?」とMAYA MAXXが提案してくれたことがあった。なぜエコビレッジなのか、MAYA MAXXはこのとき多くを語らなかったけれど、わたしの中にはパッと先が開けるような感覚があった。
にわかには信じられないかもしれないが、MAYA MAXXには未来を見通す力、あるいは未来を切り拓く力のようなものが宿っているように思う。以前に〈キミのコトバを描いてみようか?〉というプロジェクトでは、若者の悩みや不安を聞きながら絵を描き、彼ら彼女らが自ら一歩を踏み出す力を与えてきたこともある。また、こうしたプロジェクト以外にも、MAYA MAXXに出会ったことで自分の進むべき道を見つけたという人は数えきれないほど存在する。わたしもMAYA MAXXの言葉によって、背中を押されることになったひとりなのだ。
MAYA MAXX《未来はもう来ている》2014何必館・京都現代美術館で開催された『文字と形象』展出品作より
北海道でエコビレッジをつくるという目標をくれたMAYA MAXXには、いずれ岩見沢に来てもらいたいと思っていた。また地元の人たちに、MAYA MAXXというすばらしい画家がいることを知ってもらいたいという気持ちもあり、ここ2年ほどワークショップやトーク開催の可能性を探っていた。岩見沢の知人たちにMAYA MAXXを呼べる機会はないだろうかと、ことあるごとにたずねていたところ、あるとき地元の北海道教育大学岩見沢校で年に2回開催されるイベント〈あそびプロジェクト〉のゲストとして招待してはどうかという話が持ち上がった。
このイベントは、大学と地域が一体となり、音楽や芸術、スポーツ活動の原点である“あそび”をテーマにした学べる場をつくろうというもので、開催日には多数の体験コーナーやワークショップなどが開催される。あそびプロジェクトの関係者の方と話を進めるなかで、ゲストを招いて開催される〈ピックアッププログラム〉でMAYA MAXXを迎え入れることが決まった。こうして、あそびプロジェクトが開催される2月20日、MAYA MAXXが岩見沢にやってくることになったのだ。
北海道教育大学岩見沢校で開催された〈あそびプロジェクト〉のプログラムのひとつとして、MAYA MAXXの子どものためのワークショップ〈思いっきり、絵を描こう!〉が開催された。5〜11歳の20人の子どもたちが集まった。
手と足で思いっきり色を塗る子どもたち
ついに念願が叶い、地元でのMAYA MAXXのワークショップが開催された。集まった子どもたちに、まずMAYA MAXXはこう語りかけた。「白いビニールに色を塗りたいと思います。筆は使わないよ。好きな手は右? それとも左? 好きな指はどれ? 好きな手の好きな指に好きな色をつけてみよう」
ヒヤッとする絵具の感触に、最初はおっかなびっくりの様子だった子どもたちだが、徐々に体に絵具がつくにつれ、スイッチが入ったかのように体全体を使って色を塗り始めた。ふだん家でこんなことをしたら、きっと両親にとがめられるほど、体中、絵具でベトベト。無秩序な状態に見えるけれども、そんななかでMAYA MAXXは子どもたちとある約束をしていた。「絵具をつけたままブルーシートの外に出ないこと、絵を描くよりも友だちと仲良くすることのほうが大切なこと」
自由にのびのびと絵具で遊びつつも、子どもたちはちゃんとMAYA MAXXとの約束を守り絵を描く姿が印象的だった。
まず指に絵具をつけ、続いて手のひら全体に絵具をつけてみようと語りかけるMAYA MAXX。
最初は汚れることに戸惑っていた子どもたちだが、手と足に絵具がつくことを楽しむようになっていく。
筆は使わずに手と足で、白いビニールシートを色でいっぱいにしていく。
全身に絵具がべったりとつくころには、子どもたちは我を忘れて色とたわむれる。
「白い面が全部塗れたら、今度は筆で絵を描いていくよ。いま塗ったのは大地。この大地の上に生き物を描いてもらいます。どんな生き物がいるかな?」「ミミズ!」「葉っぱ!」など子どもたちから声があがった。「そうだね! 土の上には人間だって鳥だっているんだよ。でも、ここでひとつだけ約束したいのは、見たことのないものは描かないでほしいということです。ドラえもんやピカチュウは見たことないでしょう?」そんなMAYA MAXXの呼びかけに、子どもたちは大きくうなずき、筆で絵を描き始めた。
こうして約2時間。髪の毛や顔にまで絵具をつけた子どもたちは、全員、満足げな笑顔を浮かべていた。そして、ワークショップ終了時にMAYA MAXXは保護者にも語りかけた。「お父さんお母さん、今日、家に帰ってから絵がうまい、ヘタという話はしないでくださいね。描くのが楽しかったねという話をしてください。ただそれだけでいいんです」
手と足で塗ったのは大地。大地にあるものを描いてみようとMAYA MAXX。
「友だちの絵は踏まないようにね」というMAYA MAXXの言葉を守り、絵が描かれていない部分を探してつま先立ちになりながら、絵具を取りに行く。
筆を振って絵具を飛び散らせる。筆づかいも、どんどん大胆になっていく。
ワークショップのあとは記念撮影。ピースサインの代わりにLOVEの頭文字、“L”サインで。
過疎の問題を抱える美流渡でもワークショップを開催
この北海道教育大学でのイベントの翌日、MAYA MAXXには、もうひとつ、子どもたちとのワークショップをお願いしていた。開催場所は美流渡(みると)中学校の体育館。ここは、わたしがこれからエコビレッジづくりの拠点にしようと考えている岩見沢の美流渡地区にある中学校で、地元の小中学生が集まった。
岩見沢の市街地から車で30分ほどの美流渡地区。山々に囲まれたこの場所に小中学生あわせて20名ほどが集まった。北海道の冬は日中も氷点下。体育館はかなり冷え込むが、子どもたちは半袖姿だ。
中学生グループはまず赤とピンク色を手と足で塗っていく。ふだんから仲のいいメンバーなのか、体を寄せ合ってはしゃぐ。
小学生がメインのグループでは、青と緑をベースに塗る。こちらも元気いっぱいだ。
ここでのワークショップの開催には、特別な思いがあった。人口が1000人を割り込み過疎化が進むこの地区では、小中学校が統廃合されるかもしれないという問題に直面している。地域に学校がなくなるということは、子どもたちの通学の問題だけでなく、子を持つ親世代の移住の妨げにもなってしまう。
今回のMAYA MAXXのワークショップをわたしと一緒に企画してくれた、美流渡の菅原新さん(連載第10回でご紹介)は、この地域の過疎化や学校の統廃合の問題を解決するための糸口を探ろうと日々活動を続けている方だ。菅原さんに出会い、この地域にとって何か役に立つことはできないだろうかという思いから、わたしがMAYA MAXXに美流渡でのワークショップ開催を依頼したという経緯があった。
今回のワークショップでは、完成した絵を近隣の人にも見てもらいたいことから、背景となる色を赤系と青系に分け、それぞれ絵のテーマを設けることにした。赤とピンクで背景を塗った画面は夕焼けがテーマ。おもに中学生の男の子たちが中心となって、美流渡の山々の風景を描くことに。もう一方の緑と青で背景を塗った画面は、小学生たちが中心となって森にいる動物たちを思い思いに描くことになった。
緑と青の絵具で塗ったシートは森のイメージ。美流渡小中学校は山間にある学校だ。キタキツネやシカなどを実際に見たことのある子どもたちは、これらの動物を生き生きと描き出した。
赤とピンクのベースで塗ったシートは、美流渡の夕焼けの風景が描かれていく。山の向こうにカラスの群れを描くと、絵の中に風が吹いているような空の広がりが感じられた。
仕上げには大人たちも参加。美流渡はもともと炭鉱町として栄えた歴史を持つ。いまでも残されている炭住(坑夫たちが住んでいた住宅)も描き込まれた。
「最後に何か言葉を入れようか?」MAYA MAXXの問いかけに、菅原さんはしばらく言葉が出なかった。この地域をこれから先もずっと残していきたいと、学校の統廃合問題では先頭に立って教育委員会や市にかけあい、地元の人々の困りごとに日々汗をかいている菅原さんにとって、子どもたちが描いた美流渡の風景に言葉を入れることは、自分の人生を賭けたこの活動をひと言で言い表すようなものなのだろう。
思いがあふれて言葉にならない菅原さんは、じっと子どもたちの描く姿を見つめ続けていた。そして意を決したようにMAYA MAXXに、こんな言葉を入れたいと語った。それは「未来へつなぐ」という言葉。「オッケー。じゃあ、未来へつなぐの後に、何か言葉を加えてみようよ。美流渡の心? 美流渡の愛はどうかな?」とMAYA MAXX。
右が美流渡地域の活性化を目指し活動を続けるNPO〈M38〉代表の菅原さん。昨日は深夜までワークショップの準備をしていた。
子どもたちが描いた絵にMAYA MAXXが「未来へつなぐ美流渡の愛」という言葉を入れた。
手足だけでなく顔や髪の毛まで絵具だらけ。この笑顔を見るだけでも楽しかったことがひしひしと伝わってくる。
夕焼け空に描かれた言葉は、「未来へつなぐ美流渡の愛」。菅原さんの提案によって、美流渡を含めた東部丘陵地域にある、万字(まんじ)、上志文、朝日、毛陽(もうよう)、宮村という地区名も書き入れられた。また、小学生たちが中心になって描いた森の絵には、「美流渡を創る、美流渡を育む」という言葉がそえられた。
絵が描き上がってMAYA MAXXは子どもたちにこう語りかけた。「今日は楽しかったかな? わたしは来年も再来年もここに来たいと思っています。そして、この体育館を埋め尽くすくらいいっぱいの絵を描いていきましょう。全部で20枚。みんな、また一緒に描いてくれますか?」「はい!」体育館に子どもたちの大きな声が響き渡った。
最後に記念撮影。下は5歳から上は15歳まで。子どもたちの年齢はさまざまだが思い思いに描くことを楽しんだ。
また来年もここで会おう。再会を約束した日
MAYA MAXXは絵を描くだけでなく、なぜこうしたワークショップを行っているのだろうか。北海道教育大学のワークショップのあとに開催されたトークで、その理由についてこんなふうに話をしてくれた。
「魂にきれいな線を一本入れられたらと思っている」
そして例に挙げたのは、MAYA MAXXがこれまでライフワークとして続けてきた、長期入院を続ける難病の子どもたちと色を塗るワークショップ〈ハッピーカラープロジェクト〉での体験談だった。
とある子ども病院を訪れたとき、起き上がることさえ困難な少女がストレッチャーに乗って、会場になった病院の一室にやってきたことがあった。普通に会話することも難しく、ずっと付き添っている看護師さんに好きな色を聞いてもらい、ひとりでは筆を持ち上げられないのでMAYA MAXXが手を支えることによって、壁に貼った紙に赤いハートのようなものを描いた。その子が初めて絵を描いた様子を見て、看護師さんたちは驚き、歓声をあげたという。しかし少女は首を振り、さらに茶色の絵具をほしいと言い、ハートの上に一本の線を描き入れた。
「ああリンゴが描きたかったんだとそのとき思いました。難病でどんなに体が動かなくても、いまリンゴが描きたいという意思があったんです。この意思こそ、人間がいま生きているという証。あのときわたしは、少女が絵を描いたことによって、彼女の魂に一本のきれいな線がきっと入ったんじゃないかと思っています。難病の少女のように本当に切羽詰まった気持ちで物事をできるかどうか、なかなか人間というのはそうできないけれども、あの子がリンゴを描いたという事実を、みんなも忘れないでほしいと思っています」
学校に通える子どもたちは、いろんなところで絵を描く機会はあるけれど、今回のように全身絵具だらけになって描いたという経験は、きっとこれまでとは違う何かが心の中に生まれたと思う、そうMAYA MAXXは語っていた。その違う何かとは、きっと「一本のきれいな線」のことを指しているのだろう。それはワークショップに参加した子どもたちの心の中だけでなく、それを見ていた保護者にも、またトークに参加した人たちにも、確実に引かれたのではないかとわたしは思っている。
あそびプロジェクトでのワークショップのあとには、「絵を描くって気持ちいい! 子どもの表現を考える」というテーマで、MAYA MAXXと北海道教育大学の阿部宏行教授とのトークも行われた。
岩見沢にMAYA MAXXが来てくれて本当によかった。イベントが終わって1週間以上経ったいまも、なんとも言葉でいいがたい満ち足りた幸福感を感じている。そして、来年もまたこの地で会えるかもしれない、そんな期待感を地元のみんなと共有できたこともうれしい出来事だった。
MAYA MAXXに出会ったことで、岩見沢の人たちの心の中に、ほんの少しかもしれないけれど、以前とは違う変化のようなものが、きっと起こったにちがいない。もしエコビレッジができたなら、そこで、今回のような人と人との心のつながりをもっと深く生んでいきたい。自分はそうした場をつくり出したいのだという想いを、しっかりと心で感じることができた。

writer profile
Michiko Kurushima
來嶋路子
くるしま・みちこ●東京都出身。1994年に美術出版社で働き始め、2001年『みづゑ』の新装刊立ち上げに携わり、編集長となる。2008年『美術手帖』副編集長。2011年に暮らしの拠点を北海道に移す。以後、書籍の編集長として美術出版社に籍をおきつつ在宅勤務というかたちで仕事を続ける。2015年にフリーランスとなり、アートやデザインの本づくりを行う〈ミチクル編集工房〉をつくる。現在、東京と北海道を行き来しながら編集の仕事をしつつ、エコビレッジをつくるという目標に向かって奔走中。ときどき畑仕事も。
http://michikuru.com/